Interviewインタビュー
村上 清
子どもの頃に駆け回った陸前高田。
私は高校まで陸前高田に暮らしていました。
父は地元でタクシーに乗っており、母は美容室を営んでいました。そんな両親に育てられながら、子どもの頃は、広田湾で泳いだり、釣りをしたり。時間があれば友達と一緒に陸前高田のあらゆる場所を駆け回っていました。その当時の友達は、今でもRTAの大切なビジネスパートナーとして、一緒に仕事をするのですから面白いものです。私は高校を卒業すると、アメリカの大学に留学をします。子どもの頃から見てきた海の向こう側。その向こうの世界に夢を抱き、知らない世界を航海してみたかったのでしょう。今思えば、陸前高田は、北方の地域と日本をつなぐ交易の地だったそうです。海へ出たくなるのは、もしやここで暮らす私にとって運命だったのかもしれません。
父は地元でタクシーに乗っており、母は美容室を営んでいました。そんな両親に育てられながら、子どもの頃は、広田湾で泳いだり、釣りをしたり。時間があれば友達と一緒に陸前高田のあらゆる場所を駆け回っていました。その当時の友達は、今でもRTAの大切なビジネスパートナーとして、一緒に仕事をするのですから面白いものです。私は高校を卒業すると、アメリカの大学に留学をします。子どもの頃から見てきた海の向こう側。その向こうの世界に夢を抱き、知らない世界を航海してみたかったのでしょう。今思えば、陸前高田は、北方の地域と日本をつなぐ交易の地だったそうです。海へ出たくなるのは、もしやここで暮らす私にとって運命だったのかもしれません。
人と人のつながりがあって
世界を航海できた。
留学先はサンフランシスコ大学。
国際政治学を専攻しながら、アメリカの社会を学びました。これも私の強みだと今なら言えるのですが、頑張れば自ずと道は開いていきます。大学の「ワールド・イングリッシュ・センター」という大学内の留学生向けの英語向上センターでのアルバイトを先生から紹介され、事務仕事のイロハを学びながらお金をもらえるという環境になったのです。その後、ワシントンDCに移り、大学院で国際政治を学びながら日本大使館で現地職員として働くことになったのです。その後、7年の海外留学を経験し、日本に帰国。複数の外資系金融機関をヘッドハンティングしていただきながら渡り歩きました。そして2000年。今の私に直接的につながるUNHCR(国連)で働くことになったのです。
国際政治学を専攻しながら、アメリカの社会を学びました。これも私の強みだと今なら言えるのですが、頑張れば自ずと道は開いていきます。大学の「ワールド・イングリッシュ・センター」という大学内の留学生向けの英語向上センターでのアルバイトを先生から紹介され、事務仕事のイロハを学びながらお金をもらえるという環境になったのです。その後、ワシントンDCに移り、大学院で国際政治を学びながら日本大使館で現地職員として働くことになったのです。その後、7年の海外留学を経験し、日本に帰国。複数の外資系金融機関をヘッドハンティングしていただきながら渡り歩きました。そして2000年。今の私に直接的につながるUNHCR(国連)で働くことになったのです。
国連で経験したことすべてを持って
震災に立ち向かうために。
国連ではジュネーブにて5年間、難民救済のために働きました。
そしてまた金融の世界に帰ってくる決断をし、2010年には世界最大級の銀行ニューヨークメロン銀行に移りました。そして、2011年3月11日。香港出張中に東日本大震災が起こったのです。私は翌日の12日には香港から東京へ緊急帰国。東日本を中心に交通が麻痺している中、震災から5日後の16日に陸前高田に入ることができました。ありとあらゆる価値観が覆され、すべてのものが跡形も無くなった故郷。国連の経験を活かして、私が今できることとして「NPO法人Aid TAKATA」を立ち上げ、陸前高田の現状や課題を国に要請、時には強く訴え、スピーディに支援してもらう仕組みを作り上げていきました。そして、震災からちょうど10年。復興の次の目標でとして、陸前高田の未来のために、持続可能な経済と社会を目指すことを実現するために、「陸前高田企画株式会社(RTA)」を立ち上げました。
そしてまた金融の世界に帰ってくる決断をし、2010年には世界最大級の銀行ニューヨークメロン銀行に移りました。そして、2011年3月11日。香港出張中に東日本大震災が起こったのです。私は翌日の12日には香港から東京へ緊急帰国。東日本を中心に交通が麻痺している中、震災から5日後の16日に陸前高田に入ることができました。ありとあらゆる価値観が覆され、すべてのものが跡形も無くなった故郷。国連の経験を活かして、私が今できることとして「NPO法人Aid TAKATA」を立ち上げ、陸前高田の現状や課題を国に要請、時には強く訴え、スピーディに支援してもらう仕組みを作り上げていきました。そして、震災からちょうど10年。復興の次の目標でとして、陸前高田の未来のために、持続可能な経済と社会を目指すことを実現するために、「陸前高田企画株式会社(RTA)」を立ち上げました。
ビルド・バック・ベター。
以前よりも、
もっとわくわくする街に。
国連が災害復興の理念として掲げている言葉に「ビルド・バック・ベター」。災害前の状態に戻すのではなく、それまで抱えていた問題も解決し復興していくという意味の言葉です。陸前高田もハード面では、防潮堤をはじめ10mの嵩上げが完了。人々が暮らす上で欠かせない生活基盤も着実に揃ってきました。しかし、私たちRTAが目指すのはあくまでもビルド・バック・ベター。震災をきっかけにつながった多様な可能性を「社会・文化・教育」の観点からソフトに落とし込み、陸前高田の地域的価値を高めることです。そのひとつとしてRTAが取り組んでいるのが、地域資源の再発見と外に向けた発信、そして地域資源を活用したブランドの創造です。
市民の誰もが
シビックプライドを持てるように。
実は、ここに住んでいる人は陸前高田の魅力を、魅力として感じていないことが多くあります。あまりにもそれが日常的なので、気が付かないんだと思います。例えば、この広田湾でしか収穫していないイシカゲ貝。ここ最近はメディアに取り上げられたこともあり、認知されつつありますが、リアス式海岸の豊かな漁場で獲れる水産資源の中には、まだまだ全国に知られていない魅力的な食材がたくさんあります。陸前高田の魅力は海だけではありません。実は海よりも山間部の方が広く、果樹をはじめ、生鮮野菜や畜産などもある、食の王国でもあるのです。私たちRTAは、そんな陸前高田の地域資源の数々をシビックプライドとして共有していくことを目指していきたいと考えています。
子どもたちが、世界に羽ばたける
夢のまちになること。
太平洋を航路に交易が盛んだった陸前高田。遺跡の跡や歴史的な文化財などから、ここは昔、様々な文化交流が行われた港町だったことがわかります。今は、リアルでもオンラインでも世界とつながれる時代です。
RTAは、またいつか陸前高田が日本をはじめ世界中の人たちが交流し、多様な文化が入り混じるまちになることを目指しています。そして、ここで生まれた子どもたちが、大海原の対岸にいつか行ってみたいと思ってもらえるような希望のまちにしたい。そんなことを夢みています。
RTAは、またいつか陸前高田が日本をはじめ世界中の人たちが交流し、多様な文化が入り混じるまちになることを目指しています。そして、ここで生まれた子どもたちが、大海原の対岸にいつか行ってみたいと思ってもらえるような希望のまちにしたい。そんなことを夢みています。